青春シンコペーション


第8章 先生、それは誤解です!(4)


家に帰るとリビングからピアノの音が漏れていた。
「あ! 午後からのレッスン忘れてました」
ハンスが言った。
「黒木さんが引き受けてくれたのかしら?」
美樹も済まなそうな顔をして家に入った。

「すみません。遅くなりました」
ハンスがリビングへ入る。と、そこには学生とフリードリッヒがいた。
「あれ? 何でおまえが……」
怪訝そうな顔でハンスが問う。
「懺悔です。ちょっと悪ふざけが過ぎました。君がいなかった分の穴埋めはしておきましたから、これでちゃらってことにして欲しい」
「何がちゃらだ! そんなことで許せるか!」
しかし、フリードリッヒは冷静に言う。
「まだ、レッスン中だ。話は終わってからにしよう」
「わかった」
そう言われてはハンスも引き下がらない訳には行かなくなった。

「井倉君、服を着替えておいでよ。あとでお茶にするから……」
ハンスに言われ、彼は階段を上がって行った。
手すりに触れると、あたたかい木の温もりを感じた。
(何だかほっとする)
見慣れたドアやレリーフ。壁紙の色まで懐かしい気がした。
(昨日一晩明けただけなのに……。ここはもう、僕の家なんだ)
ここに来てから3カ月余り。しかし、井倉にとってはそれが自分の居る場所のように思えた。

(彩香さん……。この部屋の奥に彼女がいる……)
ゲストルームの前を通った時、中から微かな物音が聞こえた。
「ただいま……」
囁くように言ってみた。返事など期待していなかった。が、ガチャリとドアが開いて彩香が出て来た。
「戻って来たのね」
「彩香さん、あの、ただいま」
いつになくやさしい口調だったので、井倉はどぎまぎした。

「何よ、その服、泥だらけじゃない」
「これはその、ちょっと転んで……」
「なら、さっさと着替えなさいよ。泥が落ちて不衛生だわ!」
「は、はい。すぐにそうします」
彩香がドアを閉めたあとも、彼はまだドキドキしていた。

――戻って来たのね

(彼女、もしかして僕のこと心配して……。いや、そんなことはない。でも、もしほんの少しでも僕のことを気にかけてくれていたなら……)
部屋に戻ってからも、高揚した気持ちはなかなか収まらなかった。

井倉が着替えを済ましてリビングへ行くと、もうレッスンは終わっていた。
「さあ、井倉君、いらっしゃい。チョコレートのアイス、みんなで食べましょう」
ハンスが呼んだ。
「じゃあ、わたし、彩香さんも呼んで来るわね」
美樹が言った。
「それなら、僕が……」
井倉が言ったが、彼女は二階へ行く用事があるからと言った。

「ほう。美味しそうだね。私はショコラーデのアイスが一番好きなんだ」
フリードリッヒが笑顔でやって来た。
「いやだ。おまえにはあげない」
ハンスが言った。
「おい、そんなに意地悪言わないでくれよ。私だって、みんながうまく行くようにと思ったからこそやったんだ」
「おかげで僕は美樹ちゃんから愛想尽かされるとこだったんだぞ!」
「でも、逆に愛は深まったみたいじゃないか」
「それはね、美樹は僕に惚れてるもん」
「逆だろ? 君が彼女にぞっこんな癖に……」
「どっちでもいいよ。僕達、結婚するんだ」
ハンスがうれしそうに言った。

「結婚?」
「そうですよ。井倉君、君は僕達のためのキューピットだったですよ」
隣に座った井倉を抱き締めて、その頬にキスする。
「え?」
いきなりそんなことをされた井倉は何のことかわからずにおどおどした。
「井倉君が僕を許してくれて、家に戻ってくれたら、結婚してもいいって、美樹ちゃん、言ってくれたですよ」
ハンスは上機嫌だ。
「そ、そうなんですか?」
井倉が驚く。

「あとはフリードリッヒ。おまえがちゃんと証言して、美樹ちゃんに誤解を解いてくれたらすべてOKになるんだ」
ハンスは愉快そうだった。が、フリードリッヒはにやりとして言った。
「そうか。だったら、協力するのはやめておこう」
「何だって?」
そこへ、美樹と彩香がやって来た。

「おお、ハンス。我が心の恋人よ! さあ、遠慮せずに我が胸へ飛びこんで来るがいい。ショパンコンクール優勝のこの私の黄金の手で、甘いショコラーデを食べさせてあげるよ」
「貴様!」
ハンスが立ち上がる。
「女性達が来たからと照れることはないだろう?」
「ふざけるな! 本当に……」
「それとも赤ん坊のように抱っこして欲しいのかい? 可愛いハンスちゃん」
「おまえ……! 絶対に許さないからな!」
「なら、捕まえてみろよ」
笑いながら逃げて行くフリードリッヒをハンスが追い掛ける。それを見て、美樹もくすくすと笑った。
(よかった。美樹さん、ちゃんとわかってるんだ)
井倉はそう思って内心ほっとした。

「ほら、ハンス、せっかくのアイスが溶けちゃうわよ」
美樹に言われて彼は渋々席に戻って来た。
「あいつにはあげることないですからね」
「そんな意地悪言わないの。さあ、どうぞ。ヘル バウメン」
美樹が呼んだ。
「ダンケ」
ハンスはまだ口を尖らせていたが、結局みんなでアイスを食べることにした。

「それで、結婚式はいつがいいですか?」
ハンスが訊いた。
「どうせなら特別な日がいいわよね。たとえば、クリスマスイブとか……」
美樹が言った。
「それってまだ随分遠いです」
ハンスががっかりと肩を落とす。
「あっと言う間よ」
「そうですか? 僕は明日でもいいですけど……」
「桜が咲く頃ってのもいいわね」
「もっと遠いです」
どうやら彼女も少し彼をからかっているようだった。結局いつがいいのか具体的な日取りは決まらず、ハンスは不満そうだった。

「あんまり焦ってもよくないわよ。だって、それは人生において、とても大切なことだもの。ねえ、彩香さんもそう思うでしょ?」
「ええ。そうですわよ。まだ、途中で心変わりしないとも限りませんもの」
「それはきついですよ」
ハンスが言った。
「そうかしら?」
彩香は澄ましてハンカチで口を拭う。
(結婚式か。もし、僕と彩香ちゃんだったら、いつがいいだろう)
井倉は心の中で季節を巡らせた。

「おや、みんな揃っているね」
そこへ黒木が帰って来た。
「あ、お帰りなさい、黒木さん」
「アイス召し上がります?」
ハンスと美樹が声を掛ける。が、彼は首を横に振った。
「いや、さっきあちらで冷たい物をいただいて来ましたので……」
「どこへ行ってたですか?」
ハンスが訊いた。
「実は、家を出たところで白神さんの奥さんに捕まっちゃってね」
「まあ」
皆が気の毒そうな顔をした。

「だが、いいニュースを持って来たんだ」
「いいニュース? それは何ですか?」
ハンスが訊いた。
「ついさっき、ご主人の白神先生が帰って来られてね。例の愛川君の処分、撤回されたそうだよ」
「撤回?」
言葉の意味がわからずにハンスが美樹の方を見た。
「取り消されたってことよ。退学はなしになったの」
「よかった。僕達の署名、役に立ったですね」
皆が喜ぶ。

「それだけじゃないんだ」
黒木が続ける。
「彼、来学期からは特待生に昇格したそうだよ。つまり授業料全額免除って訳だ」
「え? でも、何でまたそんな180度変わったような対応を?」
美樹が訊いた。
「表向きには学校のPRになったということだね。しかし、裏側の事情としては、集まった署名の中に、多大な影響を与える人物が複数混じっていた。特に、有住財閥のお嬢さんの名前はかなりのインパクトがあったらしい。あの学校も相当額の寄付金も受けているようだからね」
「結局はお金の力なんですね」
ハンスが言った。

「それが現実というものさ。だが、愛川君のおうちは、お母さん一人で頑張っているそうだからね。今回の処遇は彼らにとって朗報だろうとおっしゃっていた」
「そうですか。それならいいんですけど……」
それでハンスも納得したようだった。
「でも、これはまだ、正式には発表されていないそうなので、くれぐれも内密にということだから……」
その時、表の道路で派手なバイクの音と爆竹が鳴り響いた。何事かと思って皆が表に出てみると、バイクに乗った高校生の集団が大弾幕を持って騒いでいた。

「姫乃君、特待生おめでとう!」
「白神先生、万歳!」
「さすがは俺達の白神!」

近所中の人達が窓やドアを開けて彼らを見ている。
「ありがとう、みんな……!」
しおりや姫乃が出て来てお礼を言った。それを見てまた、高校生達が盛り上がる。

「これこれ、君達、あまり騒いだら、ご近所の皆さんにご迷惑だろう」
白神が出て来て注意した。
「はーい! わかりました! では、最後にもう一度だけ」
「姫乃君、万歳! 白神先生、万歳!」
そうして、派手にクラクションを鳴らすと、一同は速やかに退散して行った。
「何か、ばれちゃったみたいね。でも、よかったんじゃない?」
美樹が言った。
「何だかわからないけど、コングラッチュレイション!」
フリードリッヒも言った。

「井倉のお兄ちゃん、ありがとう!」
しおりが駆けて来て井倉の手を取る。
「しおりちゃんの努力が実ったんだよ。おめでとう!」
井倉もうれしそうだった。
「本当に、皆さんのおかげです。ありがとうございます。僕、何と言ったらいいのか……」
姫乃が泣きながら近所の人達一人一人に挨拶して回る。

「何かいいお話ね」
そう言う彩香は井倉のすぐうしろにいた。その距離はあまりに近く、洋服がかすりそうだ。
「彩香さん……」
彼女の息が掛かるのを意識して、井倉は固まっていた。

「実は、白神さんの奥さんが勝手に署名しちゃったらしいんですよ。本来なら、学校の関係者はそういう活動には参加できないのですが……。しかも、それが用紙の先頭に書かれていたそうで、職員会議では問題にされたそうです」
黒木がハンスに囁いた。
「それで、大丈夫だったんですか?」
「ええ。ざっと署名した人達の名前を見たら、すごい面々が並んでいたものですからね。校長も考慮せざるをえなかったというのが本音でしょう」
「なるほどね」
「それでも、誰かが幸せになれたんだもの。いいじゃない」
美樹が言った。
「そうですね」
ハンスも頷く。
「僕達も幸せになりましょう」
ハンスは美樹の手を取って言った。
すべては順調に進んでいるように思えた。


その夜、いつもより少し早い時間にやって来たYUMIがみんなにこれまで練習して来たピアノの成果を披露した。
「ちょっぴり緊張しちゃうな」
僅かに首を傾げて言う彼女、いや、彼は何ともいえないほど愛らしかった。
鍵盤の上に優雅に手を翳すと思い切り良く弾き始めた。
バッハのメヌエット。それは昔、貴族達が宮廷で踊る舞踏会で流れているかのような美しいメロディーで、ずっとピアノを習って来た者達にとっても懐かしい曲だった。

「素敵でしたよ」
ハンスが褒めた。
「ほんと?」
YUMIが振り向いて言う。
「こんなに短い期間に、これほど上達するなんてすごいね」
井倉も言った。
「YUMIちゃん、これまでピアノやったことがないって本当?」
美樹も訊いた。
「はい。本当です。でも、ハンスが……。ううん。ハンス先生が教えてくれたから、その通りにやってみただけです」

「さすがですね。いったい、どのような教え方をなさったのです?」
黒木が興味津々で見つめる。
「特別なことは何もないです。ただ、ピアノでこの曲を弾けるようになりたいって願って、楽譜や鍵盤と仲良くなることって教えたんです」
「仲良くなる?」
彩香が呟く。
「そう。だから、おれ、じゃなかった、わたし、こう思うことにしたの。わたしはピアノの精。音楽はわたしの言葉なんだってね。そしたら、うまく行ったんです」
それを聞いて、井倉ははっとした。
「音楽はわたしの言葉……」
それは胸に刺さる言葉だった。
(僕は、そこまで考えたことがあるだろうか? 音楽は僕にとって大切なものだけど、果たしてそれ以上のことを考えたことがあるだろうか)

――ピアノは僕のすべてでした

(ハンス先生……)

――でも、それが叶わなくなった今は……

(僕は、これまで真剣にピアノに、音楽に向き合ったことがあっただろうか?)
井倉は考えた。
YUMIはジュースをもらって飲みながら言った。
「ピアノって本当に楽しい」
「それはよかった。君は舞台度胸もあるから、もう人前で弾いても大丈夫。これからは、毎日、レッスンのあとで、みんなに聴いてもらいましょう」
ハンスが言った。これもレッスンの一つ。撮影現場では、大勢の人達の前で弾かなければならないのだ。そこで緊張せずに弾くことができるように、少しずつ慣らして行こうという試みだった。
「ありがとうございます、ハンス先生」
YUMIは30分という限られた時間の中で、集中することにより劇的に上達した。音楽という新たなジャンルの楽しみが広がったのだ。

「わたし、これからもずっとピアノ続けたいです」
YUMIが真剣な顔をして言った。
「いいよ。君がそうしたいなら、いつでも教えてあげるからね」
それを聞いてハンスもうれしそうだった。
撮影はきっとうまく行くだろう。そして、YUMIのプロフィールに書かれた、趣味はピアノという言葉が嘘でなくなる日も近いだろうと思われた。
「それじゃ、おやすみなさい」
YUMIが帰ると、皆もそれぞれの部屋へ引き揚げて行こうとした。その時。
突然ドアチャイムが鳴った。

「こんな時間に誰だろう?」
ハンスがドアを開けた。
「先日は娘が大変お世話になりました」
彩香の父、有住だった。彼は先日のお見合いでの一件の礼を述べ、菓子折りを渡した。
「これはほんの気持ちです」
上には封筒も載っている。
「これはお手紙ですか?」
ハンスが封筒を見て言った。
「ええ、そんなような物です」
「すみません。僕は日本語読めないので、お菓子の方だけいただきます」
「そうおっしゃらずにぜひ受け取ってください。私の気持ちが済みませんので……」
「僕はこれで十分ですよ。奥へどうぞ。今、お茶を入れてもらいますので、みんなでいただきましょう」

ハンスが奥へ行ってしまったので、有住は仕方なくあとからリビングへ入って行った。
「お父様、ハンス先生はそういうのお嫌いだと言っておりますのよ。どうぞ引っ込めてください」
彩香が言った。
「しかし……」
「わあ! きれいなお菓子です」
箱を開けたハンスが言った。
「これは京都の老舗の和菓子ですな」
黒木も言った。
「まさに芸術品って感じです。僕、こういうの大好き! ありがとう、有住さん」
「そうですか。ハンス先生は甘い物がお好きですか?」
「はい。プリンとかケーキにチョコレート、何でも好きです」
「わかりました。では、次には特製のプリンでもお持ちしましょう」
そう言うと有住はようやく封筒を懐へしまった。

「ところで、彩香、お見合いのことなんだがね」
「お父様、もう、あのことはおっしゃらないでください。彩香は気にしておりませんわ」
「そうではなく、今度は絶対に間違いない男を見つけたんだ」
「それってどういうことですの?」
彩香が怪訝な顔をする。
「外務省の矢沢という男でね。まだ26の若手だが、将来を嘱望されている。来年度にはパリへ出向も決まっているんだが……。どうだね? 今回は身辺調査も完璧だ。きっとおまえも満足してくれると思うよ」
「お父様!」
強い口調で彩香が言った。

「ちょっと待ってください、有住さん。この間、あんなことがあったばかりなのですよ。少しは彼女の気持ちも汲んであげたらどうですか?」
黒木が非難するように言った。
「これは、彩香と私との問題なのです。関係のない者は黙っていてもらいたい」
激しい口調で有住が言う。
「関係ないとは何ですか?」
ハンスが言った。
「そんなの許せない。癒えない傷に辛子を塗るようなものですよ」
彼は有住を見下すように言い募る。
「会社の将来が懸かっているんだ。外野は黙っていろ!」
有住が鋭く否む。

「黙ってなんかいられません!」
突然、井倉が叫んだ。
「何?」
皆が彼の方を注目した。
「彩香ちゃんは、ずっとあなたのこと気遣っていたのに、あなたは自分の事業や面子のことしか考えていないんだ。彼女は、あなたの所有物じゃないし、政略結婚の道具でもない。彼女はあなたの娘なんですよ。娘を道具扱いするのはやめてください!」
井倉の頬は赤く紅潮し、目は潤んでいた。
「酔っているのかね?」
「いいえ。僕は酔ってなんかいません。僕はただ、彩香ちゃんのことが……。彼女が可哀想だと思ったから……」

「では、君は私にどうしろと言うんだ? まさか、君が彩香と結婚したいとでも言うのかね?」
「いえ、それは……」
急に怖気づいたように口籠る井倉。
「そうだろうとも。君には何もないのだからね。地位も名誉も財産もない。そんな男のところに大事な娘を嫁がせる馬鹿が何処にいる?」
「そ……!」
(そうだ。僕には何もないんだ。わかってる。でも……)
「わかったら引っ込んでいなさい。この私に立て着くことなど許さん! 誰であろうとね」

「へえ。だったら、出てけよ!」
ハンスが言った。
「何?」
「こいつは、あんたのとこの薄汚い犬にでも食わせてやるんだな!」
ハンスが菓子折りを有住に投げつけた。

「ハンス、どうしたの?」
お茶を運んで来た美樹が驚いて訊いた。
「この人、何もわかっていませんでした。反省なしにここへ来ました。そういう人、僕は嫌いです」
「反省だと? この私が間違っていたとでも言うのか?」
「間違っているわ」
彩香が言った。
「彩香、おまえ……」
「わたしはお父様のおもちゃじゃありません。家のために結婚するなんていやです」
「彩香……。私に逆らうなど……。こんな娘ではなかったのに……。音大などに行かせたのが間違いだったよ。花嫁修業には丁度いいと思ったんだ。それを……」

「お父様は、あの浮屋と同じことをおっしゃるの?」
「馬鹿! あんな愚か者と父を一緒にする奴があるか!」
「いいえ。お父様は今、そうおっしゃったのよ」
彩香も負けてはいなかった。
「その通りです。有住さん。このままではお嬢さんがお気の毒だ」
黒木も加勢する。
「揃いも揃って何て奴らだ! 来なさい! こんな連中のところにいるからそんな口を利くようになったんだ」
「違うわ!」
逆らう彼女の手を掴んで父親が言った。

「違うものか。おまえは騙されているんだ。さあ、早く来なさい。一緒に家へ帰るんだ」
そんな有住の手をぴしりと打ってハンスが言った。
「出て行ってください」
「国際警察だか何だか知らないが、これ以上うちの娘を誑かすと承知しないぞ!」
「お父様、やめて! わたしは誑かされてなどおりません。わたしは自分の意思で申し上げているのです」
「意思など必要ない! おまえはわたしの言う通りにしていればいいんだ」
「な……!」
「そうだ。私の言う通りにしていれば間違いないんだ。家のため、そして、おまえ自身のためにも……」

「お父様……」
彼女は両手で顔を覆うと、そのままリビングを飛び出して階段を駆け上がって行った。
「彩香さん!」
井倉が思わずそのあとを追った。
「彩香!」
有住も呼んだ。
「お引き取りください」
美樹が言った。
「何だと?」
「ご自分が何をしたのかわからないなら、今すぐ出て行ってください」
強い口調で彼女に言われ、じっとその顔を見ると、有住は頷いた。
「いいだろう。今夜のところは帰ることにしよう。だが、娘は必ず返してもらうからな」
捨て台詞を言って、有住は出て行った。

「彩香さん……」
井倉が階段を上がって行くと、ドアの前で彼女は顔を伏せたまま嗚咽していた。
「何しに来たの?」
こちらを見ずに彩香が言った。
「何ってその……」
うまい言葉が見つからなかった。
「あなたが、わたしを救ってくれるとでも言うの?」
「それは……」
一瞬喉を詰まらせた。が、彼は思い切って続けた。
「救いたい……」

「どうやって?」
彼女は目頭にハンカチを押しあてた。
「……どうしたら、君の気に入る?」
「そんなことも自分で決められないの?」
彼女は顔を上げるときつい目で睨んだ。
「決めるって、その……」
(確かに僕は君を救いたいと思っている。たとえ、どんなことをしてでも……。君を幸せにしたい。それができるなら僕はどんなことだって……)

頭の中でいろんな言葉が錯綜した。が、いったいどう言えばいいのかわからなかった。
「僕は……」
鼓動が早過ぎて何拍も飛んだ。
「僕はずっと……君のことを……」
息が止まりそうだった。

「駆け落ちして!」
突然、彩香が言った。
「え?」
井倉が目を見開く。
「本当にわたしを救いたいと言うなら、それくらいの決意がなければ許されないわ」
「で、でも……」
井倉は冷や汗をかいて固まった。
「どうなの? 井倉、あなたの本気とやらを見せてちょうだい。さあ、わたしを連れて駆け落ちするの? しないの? どっち!」